蜜の流れる機械 1
彼は目覚めた。
そこは白い部屋だった。
壁も床も天井も白く、カーテンやベッドもまっ白だった。
どうやら病室のようだ、と彼は思った。
なぜ自分はこんなところにいるのだろうか。
いくら考えてもわからなかった。彼にはまるで自分の過去についての記憶がないのだった。
しばらくすると、ドアが開き白衣を着た看護婦が部屋に入ってきた。
看護婦はベッドの上へ半身を起こした男を見て言った。
「あら、目を覚ましたのね、ナンバー9」
「ナンバー9……なぜそんなふうに呼ぶんだ」
「この病院の規則です。記憶喪失の患者さんを刺激しないために」
「そうか、やっぱりおれは記憶喪失なのか」
「大丈夫、すぐによくなるわ」そう言いながら看護婦は、熱を測るようにベッドの上の男の頬に触れた。
看護婦は長い黒髪の若い女性でよく日に焼けたような肌の色だった。その睫毛の長い黒い大きな瞳を見て、ナンバー9は以前にもこの女と会ったことがあるような気がした。
「君、名前は?」
「私はナンバー4です」
「そうじゃなくて、名前があるでしょ」
「この病院では患者さんも職員もナンバーで呼ばれる決まりなのです」
看護婦は、ベッドの頭の方についている計器の数値を読み取ると、それをクリップボードの上に書き込んだ。
「間もなく、先生が診察に来ますから」女は病室を出て行った。
女は「間もなく」と言っていたが、いつまでたっても誰もやって来なかった。
とても静かだ。時々、空調機のはたらく低く唸るような音が聞こえた。
ナンバー9はそのうちに眠くなり、そして眠ってしまった。
彼が目を覚ましたのは、自動拳銃のスライドが引かれた音を耳にしたためだった。
意識ははっきりしていたが、目は閉じたまま動かずにいた。
何者かがベッドに近づく気配を感じた。ぎりぎりまで待ってから、一気に身体を起こした。
「きゃっ」女が悲鳴を上げた。
そこにいたのはナンバー4と名乗った看護婦だった。手には小型の自動拳銃が握られていた。トリガー・ガードから銃身にかけて三角形のシルエット。モーゼルHScだ。
女は銃口をナンバー9へ向けようとした。彼は女の手首をつかみ捩じ上げた。そのままベッドから降り立った。
「ああっ」女は銃を手放した。
ナンバー9は女をベッドへ突き飛ばすと、モーゼルの銃口を向けた。
「なぜおれを殺そうとした?」
看護婦は黙って首を振った。
ナンバー9は白衣の襟をつかみ銃口を女の顔へ近づけた。「言うんだ」
「仕方がなかったのよ。命令されて」
「誰にだ?」
「ナ、ナンバー6」
「また番号か。何者だそいつは?」
「この病院の院長よ」
「なぜ院長がおれを殺そうとするんだ?」
「し、知らない。私は言われたとおりにするだけ」
「どこにいる?」
「十三階。エレベーターを降りて正面。そこが院長室よ」
ナンバー9は女を残して病室を出た。
彼は裸足で、白いパジャマの上下を着ていた。
拳銃をパジャマのズボンのゴムに挟んでエレベーターに乗った。
十三階で降りると正面に立派なドアがあった。
ドアを開け、彼は中へ入った。
広い部屋の中央に机があった。その向こうに男が座っていた。
男にしては長い髪の白衣の人物で、生白い肌に横に細長い眼鏡をかけていた。
机の上には黒い猫のかたちの彫像が置かれていた。
「よく来たな、ナンバー9」男は猫の像を手に取りながら静かに言った。
「ナンバー6っていうのはあんたか?」
「そうだ」
「看護婦におれを殺させようとしたな」
「ナンバー4のことか。たしかにな。しかし本当に殺すつもりはなかった」
「どういうことだ」
「言わば、ショック療法というわけさ。君の記憶が戻るかと思ってね」
「ばかな。一歩まちがえば、こっちは死ぬところだ」
「君なら、あの程度の方法で殺されるわけはない」
「おれの過去を知っているのか?」
「まあ、知っていることもある」
「それを教えろ」
「無駄だ。もはや手遅れなのだ」
「なんだと」ナンバー9は懐から取り出した拳銃を突きつけた。「どういう意味だ?」
「まあ、落ち着きたまえ」白衣の男は手にした猫の彫像の顔をナンバー9の方へ向けた。
「わかるように説明……」と言いかけたところ、シュッと圧搾空気の抜けるような音がした。胸に何かが刺さったのを感じた。
見ると彼のパジャマの上から胸へ小さなガラスの注射器が突き刺さっていた。猫の彫像の口の中には注射器を撃ちだす空気銃が仕込まれていたのだ。
「何だこれは?」
「安心したまえ。ただの麻酔だ」眼鏡を光らせながらナンバー6は言った。
ナンバー9は全身から急激に力の抜けるのを感じた。
彼の意識は遠のいていった。
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